ルマン24時間をたった1人で走り切ろうとしたピエール・ルヴェーの話

更新日:2020年5月8日


フランスで現在も開催される世界三大レースの1つ、ルマン24時間レースはモータースポーツの中で最も過酷なレースとして知られています。


2019年はトヨタの8号車(セバスチャン・ブエミ、中嶋一貴、フェルナンド・アロンソ)が、13.629kmのサルト・サーキットを385周走破して優勝するなど、現代に至った今でもその数字から戦いの過酷さが伝わってくるレースです。


この年は優勝した8号車のドライバー全員が元F1ドライバーでしたが、世界的に有名なF1ドライバーでも、ルマンで勝つことが特別だと考える選手は大勢います。


ですが、今回ご紹介したいのは、これよりもっと昔のレーサーのお話。


それはF1にも参戦した経験を持つフランス人、ピエール・ルヴェーというドライバー。


実はこの人、現代のルマン24時間レースにも大きな影響を与えるほどの、過酷な挑戦をしていたのです。


万能アスリートが30代でレースの世界へ

モータースポーツがまだ黎明期である1905年12月22日、ピエール。ルヴェーはフランスで生まれます。


そんな彼がレースを始めたのは32歳のこと。


現代では幼少期からレースを始めるレーシングドライバーは一般的ですが、この当時は30代からレースを始めることも珍しくありませんでした。


それまで彼はアイスホッケーやテニス、さらにはヨット競技などのスポーツ選手として活躍してきたそうです。


それぞれ分野の違う競技で活躍していたことは、レーシングドライバーに求められる適応力の高さが伺えるエピソードで、高い運動神経の持ち主だったと思われます。


そんな彼が自動車レースの世界に進むことになったのは、レーサーであった彼の叔父への憧れと、1923年に初開催となったルマン24時間レースを観戦したことが大きなきっかけでした。


ちなみに彼のルヴェーという名前はその叔父に敬意を表して付けた仮名であり、本名はピエール・ブイヨンと言うそうです。


話を戻して、ルヴェーは1937年にレースの世界に飛び込むと、すぐさま高い評価を受けるようになりました。


第二次世界大戦が終結した1945年以降は各国のグランプリレースが活発になると、彼はタルボ製のマシンを駆って参戦し、レーシングドライバーとしての地位を固めていきます。


F1ドライバー、ピエール・ルヴェー

1950年に各国のグランプリレースが選手権化されF1として定義されると、第5戦ベルギーGPからルヴェーはF1への参戦を開始します。


ルヴェーは引き続きタルボのマシンでF1に挑みますが、当時はアルファロメオ勢がいつも上位を占め、マシンの性能差が際立っていたことで好成績は残せませんでした。


それでも、デビュー戦のベルギーGPで7位と、タルボ勢では上から2番目の位置でフィニッシュしてみせます。


最終的にルヴェーは1951年までの2シーズンで計6戦にスポット参戦するも、7位が最高位として記録されています。


また、完走することが大変だった当時のF1において50%の完走率を残しており、これはリタイアがほとんどであったタルボ勢の中で比較的高いものでした。


彼のキャリアはルマンを中心に語られることがほとんどですが、こうしたF1での戦績からも彼の適応力の高さや、耐久レースへの適正を示すエピソードのひとつと言えるでしょう。


念願のルマン24時間レース

ルヴェーが子どもの頃から憧れてきたルマン24時間レースへ初出場を果たしたのは、33歳とレースの世界に入ってからすぐのこと。


タルボはルマンに出場させるマシンのうち、ジョン・トレヴォーのセカンドドライバーに空きがあり、ここにルヴェーが抜擢され念願のシートを獲得します。


しかし、その初出場はマシントラブルが発生したことで、一度もドライブしないまま初のルマンを終えるという悔しい結果に。


続く、翌年にもリベンジを果たさんと再びタルボから参戦し、今度は無事にレースで走行を叶えますが完走はならずリタイア。


キャリアの浅いうちから能力に定評のあったルヴェーでしたが、ルマンにおいては思うような結果を残せないまま、第二次世界大戦が勃発したことをきっかけに大会は休止されてしまいます。


ルマン24時間が復活。しかし、その時ルヴェーは...

戦時中はレースイベントが相次いで中止されていましたが、終戦を迎えると再びモータースポーツも再び盛んに行われるようになりました。


そして、1949年には10年ぶりにルマン24時間レースが開催されます。


しかしルヴェーが居たのはマシンのコックピット、ではなく観客席でした。


他のグランプリには参戦していたルヴェーでしたが、翌1950年もルマンへ参戦しておらず、再びシートを見つけ出す所からの再出発となってしまいます。


再び辿り着いたルマンの舞台、そして伝説のドライブに向けて...

復活して以来参戦から遠ざかっていたルヴェー。


ですが、1951年にかつてルマンへのシートを掴んだタルボのワークスドライバーの座を射止め、実に12年振りにルマンへの出場を果たします。


この時ルヴェーはすでに45歳になっていましたが、この年ついにルマン24時間レースで初完走に加えて4位と表彰台に迫る好結果を残しました。


この結果も手伝って1952年もタルボのワークスよりルマン参戦のオファーを受けるのですが、意外にもルヴェーはこれを断ってしまいます。


タルボは自社工場で製作したマシンでの参戦を予定していたのですが、そのマシンに改良を施したいというルヴェーの思惑が一致しなかったのです。


レースキャリアの多くでタルボのマシンを駆ってきた彼は、他のドライバー以上に改善すべき点を理解していたのではないかと思います。


そして、ルヴェーはルマン優勝へ向けて、その情熱を注いでいきます。


まず、彼は私財を投じてタルボのマシンを買い上げ、エンジンを規定のギリギリまでチューニング。さらにボディには特製品を装着するほど苦労を掛けたマシンでレースに臨みます。


その投入金額はなんと優勝賞金の3倍にも及んだそうで、彼のルマンに懸ける想いが読み取れるエピソードとして伝えられています。


25万人の前で大激走を見せたルヴェー

手塩に掛けたマシンを持ち込んだ1952年のルマン24時間レースは、25万人もの観客が訪れる大盛況のなかスタートを迎えます。


この年出場したマシンは全57台、ルヴェーは序盤から上位争いに食い込むと開始5時間の時点で2番手にまで浮上します。


この時、トップを走るロベール・マンゾンが同じフランス人だったことで、1-2が母国のドライバーとなりスタンドは盛り上がりを見せたそうです。


すると、レースも山場を迎えた明け方4時、マンゾンがブレーキトラブルによりリタイアを喫し、ついにルヴェーはトップに登り詰めます。


ここからルヴェーはトップを走り続けたのですが、後世に語られる逸話が生まれたのはここからでした。


なんと彼は24時間に渡るレースを、たった1人きりで走り切ろうとしたのです!


もちろん、彼にはチームメイトがいたのですが、レース中には何度かピットインを行う度にドライバー交代を拒否したのです。


彼はドライブは、気付けばチェッカーまで残り1時間を迎えようとする時点まで続き、ピットからのペースダウンの指示が飛ぶも構わずプッシュを続け、なんと2番手のメルセデスを4周遅れにしてしまいます。


このペースで行けば十分優勝を狙えるところまで迫っていました。


しかし、この伝説となる快走劇をもってしても、彼の悲願であるルマン優勝にはあと一歩届かずに終わってしまうのです。


レースも残り1時間15分となったところで、彼のマシンにトラブルが発生。


23時間もドライブを続けた彼は、疲労のあまりシフトダウンの際にミスを犯し、これがきっかけでエンジンブローとなり無念のリタイア。


単独走行でのルマン制覇は夢に終わってしまったのです。


一説によると、これはクランクシャフトベアリングのボルトが緩んでいたことが原因だったのでは、とも言われています。


ですが、いずれにせよ前人未到の快挙に届かなかったのは、彼のルマンに懸ける想いを考えると残酷な結果であり、またルマン24時間レースの厳しさを思い知らされます。


そうして、レースを終えた彼は疲労困憊で、ピットに戻ると結果も見ないまま眠りについたそうです。


しかし、このルヴェーの戦いぶりには称賛が寄せられ、このレースで優勝を飾ったメルセデスは、次にルマンに参戦した際には彼をドライバーに迎えることを約束します。


このルヴェーの伝説の走りによって、ルマン24時間レースに今も続く新たなレギュレーションが生まれます。


危険防止のため『1人での連続走行は80周、走行ドライブ時間は14時間まで』と定められ、たった1人でのルマン24時間制覇は二度と見られない”伝説の走り”となりました。


3年越しの約束。メルセデスと共に挑んだルマンで

優勝まで迫る激走を見せたルヴェーでしたが、彼の挑戦はまだ終わりません。目標はあくまでルマン制覇。


彼は年に一度の挑戦を続けるのですが、それ以降の2年間は8位完走とリタイア。


優勝に手の届かない日々が続くなか、1955年にメルセデスが3年振りにルマンへの参戦を果たします。


3年前に交わされた約束通り、ルヴェーはメルセデスのワークスドライバーに招かれます。


これは彼にとっても現状を打破するきっかけであり、新しい技術が盛り込まれた戦闘力の高いマシンは悲願成就へのチャンスでもありました。


しかし、この感動的な約束はモータースポーツ史に残る悲劇の始まりになってしまいます。


1955年6月11日、第23回ルマン24時間レースはいつも通りスタートを迎えます。


レースが始まると、F1王者としても知られるマイク・ホーソーンとファン・マヌエル・ファンジオの2名が徐々に後続を引き離し、ルヴェーは6番手を走行するもトップから周回遅れにされてしまう苦しい展開。


スタートから2時間ほどが経過すると、各チームが最初のピットストップのタイミングを迎えます。


そして訪れた34周目、ピエール・ルヴェーはこの夢舞台で帰らぬ人となってしまうのです。


ホームストレートに差し掛かったルヴェーの前方には、トップのホーソーンと周回遅れのマシンがおり、周回遅れのマシンが進路を譲ろうとした際にミスコンタクトが起きてしまいます。


ホーソーンはこれをパスするとピットインを行うため減速、しかし背後にいた周回遅れのマシンも慌てて減速したところ、そこにルヴェーが追突。


ルヴェーのマシンは追突の勢いで宙を舞い、猛スピードのまま地面にバウンドしながら壁に激突。衝撃でマシンは炎上し、ルヴェーはマシンから放り出されてしまったと記録されています。


また、マシンのパーツがスタンドの飛び散ったことや、追突されたマシンもピットレーンに居たスタッフや警察官を巻き込んでしまったことで、観客83名が亡くなるモータースポーツ史上最悪の事故として伝えられています。


この事故によってルヴェーのルマン制覇の夢は、彼が憧れ続けた舞台で断たれてしまうことになりました。


ですが、回避行動から接触までの僅かな瞬間に意外な行動を取ったのです。


この接触を間一髪で避けたファンジオは、ルヴェーは接触の直前に左手を挙げて後続に合図を送っていたと証言。


その合図によってファンジオは事故を回避できたとし、「私が生きていられるのはルヴェーのお陰だ。」「私に警告するために挙げた手は、さよならを言うためだったように思える。」と後に振り返っています。


そして彼は現在、レースを志すきっかけであり憧れであった叔父と同じお墓で眠っています。